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[私の体験談] 私のドナー体験

更新日:2023年3月9日

骨髄提供を2回ご経験された濵田さんより、ドナー体験について寄稿いただきました。


濵田和直


私は、全国的にも珍しいドナー(非血縁間の骨髄提供者)を2回体験させて頂いた3姉妹の父で孫が5人いる濵田和直です。現在57歳で霧島市にある有限会社きりしま保険事務所の代表を務めています。

27歳の時に献血の延長をするくらいの感覚でドナー登録をしました。(現在は、事前に説明を受け献血時に2CCの採血で登録可能です。献血時に出来る時もあります。)

それから2年経った1995年(平成7年)7月に、団地の郵便受けに封筒が届きその中に提供できる方がいるので詳しい検査を受けて欲しいとの手紙が入っていました。

「登録していたことを忘れていたけど自分が選ばれた!」と認められたような、例えば合格通知をもらったような喜びがありました。

こちらの事を気遣って、友人からは小さい子供が3人いるし、公的に骨髄バンクが出来て4年弱だったこともあり無理することはない、というアドバイスもありました。

流れに任せて生きてきて面倒くさくなかったらやるという人生でしたが、なぜかこれは登録した時からやらなきゃならないという想いが強く、心配する声には耳を貸さず、積極的に骨髄移植に向けての準備を始めました。



移植まで半年くらい時間がかかりました。

その間、詳しい説明・健康診断・自己血の採取など3、4回鹿児島市内の病院へ行きました。最終同意(必ず移植手術を受けるという確約)が済んだ時からは健康管理に気をつけ、当時は冬の時期だったので長袖肌着・ズボン下まで購入し、2カ月前から飲酒も控えて万全な体制でいい骨髄液を作ろうと頑張った日々を思い出します。


入院は4日間でした。手術の前々日に入院したのですが、せっかくなので鹿児島市内での仕事を入れて、入院の約束時間ギリギリに入ったら、担当医の方に事故でもあったらどうする気ですかというお叱りを受けました。

もう自分だけではなく患者さんの事も考えなければならないのに、うっかりしていた自分が恥ずかしかったです。今でも最後の詰めが甘くなることがあるので、そのたびに思い出す出来事です。

翌日は検査をしたりしてゆっくりとした時間を過ごし、手術の日は朝8時にはストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれました。昼過ぎには手術が終わり、目が覚めた時は病室でした。

事前の説明のとおりの流れですべて終わったと思っていました。

一つだけ忘れていたのが、術後初めてトイレに行ったときに痛みがあるかもしれないということでした。ものすごく痛くてびっくりしたのを覚えています。

1回目だけだったので、たまたま管を抜くときにキズでも出来たのかなと今では思っています。翌日、車に積もった雪で小さな雪だるまをお土産に、自分で運転して国分まで帰りました。太い針を指したのでもちろん痛みはありましたが、私の場合は、半年いや3カ月くらいで痛みもなくなりました。もう刺した跡もわかりません。

当時は、だんだん痛みがなくなるごとに、患者さんが少しずつ元気になっていると思うと話していたものです。


しばらくしたら、骨髄バンクを経由して患者さんとそのお母さんから手紙が届きました。「命の水をありがとう」という小学生高学年くらいの男の子でした。感謝の言葉とそろそろ退院できそうという手紙をもらい、よかった!という安堵の気持ちで一杯になりました。お母さんのお手紙には「生きているってことは本当に素晴らしいことですね」とあり、実感がこもった言葉に感動しました。自分は娘三人なので息子が出来たような感じになりました。



2回目は8年後の2004年(平成16年3月)でした。

2回目ということは最後かなという寂しさもありましたが、もう一度、誰かのために役に立てるというのは嬉しかったし、ありがたいことだという充実感がありました。術中の写真をお願いしたら、最後だからと特別に許可が出て何枚か記録が残りました。

子ども達も病院に見舞いに来ることができ、退院の日は家族一緒に帰りました。


骨髄バンクを経由して、また患者さんから手紙が届きました。手紙には、九州新幹線がつながることでより身近な存在に感じるとあり、自分の娘二人とは骨髄液の型が合わなくて悲しんでいたが移植できることになって家族みんなで喜んでいるとありました。人生観が変わった、元気になって世の中のために役立つ事をしていきたい、とあり、こちらも嬉しくなりました。今度はお姉さんが出来たなと思いました。

手紙は大切に保管しています。コピーをファイルに入れて仕事場の机に置いて時々読み返しています。宝物です。



ドナーになったことで、昔から言われている「情けは人の為ならず」という言葉は本当だなと実感しました。

子ども達がこの経験で感じたことを作文にして表彰されました。長女は副賞で中学校3年生の夏、無償で1カ月アメリカに留学させてもらえました。次女は大学生時代に英語のスピーチをしていたのですが、骨髄移植を題材にしてあちこちで発表できる機会をもらえました。

そして私は、体験談を応募用紙に書いて申し込んだら2020東京オリンピック・パラリンピックの聖火ランナーに選んでいただきました。しかも上白石萌歌さんが走った南九州市のエリアだったので2 ショットで写真も撮らせてもらいました。すごくかわいくて優しい感じの女性でした。もっと積極的に話しかければよかったと今でも後悔していますが、いい思い出になりました。


この場にも立たせて頂けるのも、ドナー体験があったからだと感謝しています。

人前で上手に話すことは苦手ですし、中々慣れないのですが、ドナーになったら患者さんにチャンスが広がるだけでなく、自分自身にも色々な機会やご褒美があった事を知って頂き、正しい情報が伝わり、骨髄バンクに関心を持って頂ければ幸せです。


最後に、以前骨髄バンク・キャンペーンで「ピアノ三重奏の夕べ」というのがあり、そこで「まだ見ぬ、もうひとりの私へ」という題材で、全国の移植を受けた患者さんとドナー体験者に投稿が呼びかけられました。その出来上がったパンフレットにも私の文章が記載されましたので読ませて頂きます。


「会って、こんなおっさんからもらったのかと嬉しかった気持ちが半減したら困るから、ずっと会わない方がいいのかも・・・会ってすげえ金持ちだったら「お金くれ」と言うかもしれないので、会わない方がいいのかも・・・色々な事を考えながら、一人でも多くの人が病気を苦にせず生活できればいいと思う。大変なこともあると思うけど、お互い長く、楽しく生きていこう。出会うチャンスがあるかもしれない。」


この場もそうですけど、何か行動を起こすときに音楽と組み合わせることで、人は自然に動くことが出来る! 音楽の力ってすごいと感じます。

ちょっと勇気を出して、想像力を膨らませて、誰かのために行動出来たら、いい社会になって行く。それを信じて終わりにします。ご清聴ありがとうございました。

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