白血病を乗り越え、現在は教員として健康の大切さや命の尊さを伝えている深美さんに
ご自身の体験について寄稿いただきました。
深美 陽市
(1) 発病から退院まで
高校3年の冬(2002年1月),私の闘病生活は突然始まった。
秋口あたりからポコッと腫れていた首の付け根を診てもらうために近くの病院へ行った。軽い気持ちだった。何の心配もしていなかった。
これまで大きな病気などしたことがなかったし,小中高とサッカーをしてきて体力には自信があったからだ。
しかし,採血をすると,「うちの病院では白血球が測りきれません。すぐに大きな病院へ行ってください。」と言われた。
そこからはジェットコースターに乗っている時の景色のように,様々な出来事が後方へ飛んでいくように過ぎていった。
その日のうちに入院し,すぐさま何本もの点滴につながれ,無菌室に入れられた。
今年の大学受験はできないと告げられ,私の日常は崩れ去った。夜には担任の先生がやって来て泣いていたので、これが現実なんだと思った。
次の日には治療が始まった。
背骨から大きな注射器で骨髄液を抜かれて半泣きになり,赤色や青色の点滴が体に入ってきて,気分が悪くなった。1週間ほど経ち,朝起きると散髪屋の床に落ちているくらいの髪が抜けていた。それでも,次々に起こる出来事はどこか他人事のようで,リアリティーがなかった。
そうして入院から4ヶ月が経ったある夜,何の気なしにテレビを見ていた。無菌室,口内炎,抜毛など,身に覚えのある言葉と映像に引き付けられ,ある少年のドキュメント番組を見た。すると,その話のすべてが今の自分と重なった。そして,私は,自分が「白血病」であることを知った。いつの間にか流れ出していた涙の中で、私はあることを悟った。“私はこの子と同じ様に死ぬ”ということ。次の日,父が付き添い,担当医から正式な告知があった。何かの間違いであって欲しい,そんな淡い期待は打ち砕かれた。混乱し,絶望した感情を泣きじゃくりながら父にぶちまけ,「何で言ってくれなかったんだ?」と問い詰めた。父は絞り出すように「言えなかった。」とだけ言った。その時生まれて初めて父の涙を見た。私もそれ以上は何も言えなかった。
その後,白血病が血液のがんだということや流行っていた映画で亡くなるヒロインの“不治の病”がこの病気であること,当時人気を博していた格闘家がこの病気であっという間に亡くなったことなどを知り,気持ちは滅入っていった。この頃から死というものがリアルに私のそばにあるような気がした。
治療の副作用による身体的なつらさ以上に私が苦しんだのが白血病という病気との向き合い方である。現在,白血病の原因はわかっていないそうだ。つまり,すごく大まかに言うなら,誰もがかかる可能性のある病気だし,不摂生をしていると罹りやすいとか自分の家系的に罹りやすいということもないのだ。
「じゃあ,どうして自分なのか。」,「どうして自分だけがこんな苦しい思いをしなければならないのか。」という思いをもつのは当然かと思う。
結局,私は退院するまでこの思いから逃れることができなかった。
「こんなこと考えたってしょうがない。」と前向きになれることもある。しかし,体調が悪くなってくると,またこの思いにじわじわと心が侵されていく。これまでの私の生き方や、やってきたことのこれが悪いからだ、と言ってくれたらどれだけ楽になれるだろう。しかし,そんな理由は誰も教えてくれない。「俺なんかよりも死んでいい人間なんていくらでもいるはずなのに…」。こんな荒んだ思考が溢れるように湧いてくる。そうして自己嫌悪に陥る。体調の悪さと精神的な落ち込みが負のスパイラルで進み,真っ暗な闇の中へ落ちていく。どこまでも,どこまでも…。
人は勧善懲悪,因果応報の世界に生きているから“まっとう”でいられる。白血病はその世界から患者を押し出してしまう。まっとうでいるのは容易なことではない。実際,入院生活の中で身体的にも精神的にも一番つらかったときには,自殺を考えたこともあった。入院していた5階の病室の窓枠に足をかけるところまで追い詰められた。
入院から半年が過ぎた頃,骨髄バンクからドナー(骨髄提供者)が見つかったとの知らせが届いた。私の場合,ドナーに適合する家族がいなかったため骨髄バンクで探してもらっていたのだ。闇に沈んだ私の心に光が射した。骨髄移植手術を受けることができる。これで助かると思った。
しかし,骨髄移植は私が思い描いていた“命を救う治療”からは程遠いものだった。
移植のための前処置を始めて白血球数が500を切ってから,退院するまでの記憶にはもやがかかっている。鮮明に覚えていることは一つ。移植から1週間経った頃,私の体と心は限界をむかえていた。激しい吐き気で嘔吐を繰り返し,食道が炎症して唾が飲み込めなくなったことで仰向けに寝られなくなった。横向きに寝ていると今度は下になった側が痛むようになった。吐き気と痛みから逃れる術を失い,次第に私の心は黒い絶望に満たされていった。「こんな状況をあと数週間も耐えられない。もうダメだ。」そんな時、ふっと体が軽くなる瞬間があった。痛みが和らぎ,目は閉じていたが周りが明るくなった。「もういいよ。これでいい。」私は思った。しかし,一瞬,母の顔が浮かび,目を開けると,薄暗い病室のビニールカーテンの向こうから母がこちらを見ていた。「まだ死ねない。」と思った。
同室だった多くの戦友たちが旅立っていくなか,入院から1年3ヶ月後,私は生きて退院することができた。
(2)退院後から大学入学まで
何かを頑張っていなければ病気に飲み込まれてしまうような気がしていた私は,もともと大学進学を考えていたこともあったので入院中に受験勉強を始めた。
体の調子がよく,食堂で勉強をしていたある日,「いつも頑張っているね。」と声を掛けてくれたのがAさんだった。Aさんは30代の女性で,子供が2人いた。同じ病気で入院中だったこともあり,少しずつ話をするようになった。互いの病室を訪ねて話をするような仲になった。私にとっては同じ境遇にある初めての戦友だった。Aさんは病気の悲壮感など感じさせないほんわかした雰囲気をもっていて,いつも私の話を笑顔で聴いてくれた。私が骨髄移植手術をうけた後にAさんも同じ手術を受けることが決まっていた。手術のために私が転院する日,「きっと大丈夫!」と送り出してくれた。
術後初めてAさんを訪ねた時,Aさんは嬉しそうにしてくれたが,私の話を聞くうちにいつもの笑顔はなくなった。体力面での不安やまだ小さい子どものことを話し始めると、幾重にも涙が頬を伝った。私も現実を知っているだけに,軽々しい励ましの言葉はかけられなかった。しかし,何とか元気づけたいと思った私の口からは、思わぬ言葉が出た。「俺,学校の先生になります。子供たちに命の大切さを伝えたいと思っていて,だからまた勉強を始めようと思っています。」自分の中で決めていたことではなかった。しかし,Aさんがハッとしてこちらを向いたので,「やっぱこの経験を生かさないといけないと思うんです。」と言葉を続けた。Aさんは「深美君は私の太陽だよ。すっごく元気をもらってる。」と涙を拭いながら言った。私は嬉しくて恥ずかしくて,「言うだけなら誰でもできるので,本当にそうなった時にまたそう言って下さい。」と言うと,Aさんは「分かった。」といつもの笑顔で返してくれた。病室を後にした私はエレベーターの中で気持ちを落ち着けながら,やるしかないと腹をくくった。
夏,予備校に入った。入院中とは違い,やればやっただけ少しずつ前に進んでいるのが実感できる受験勉強は苦ではなかった。ただ,退院から3ヶ月で体力が戻っていないことに加え,骨髄移植手術の影響で体中に湿疹ができていて,とてもかゆかった。見た人がギョッとするほどの発疹だったこともあり、真夏に長袖長ズボン,更には,髪の毛や眉毛が生えそろっていなかったので教室でも帽子をかぶっているとなれば,話し掛けてくるクラスメイトはいなかった。でも,それも苦ではなかった。私が受験勉強に没頭する中,Aさんの骨髄移植手術は無事終わったが,入院は続いていた。術後の状態が悪かったからだ。勉強の合間に見舞いに行くとAさんは嬉しそうにはしれくれるが,状態は悪化の一途をたどっていた。2人とも病状のことには触れずに,それ以外の話をした。冬になると追い込みの時期となり,見舞いに行くことがなくなった。思うように成績が伸びなかった時期を乗り切れたのもAさんの存在が大きかった。
3月,志望していた鹿児島大学教育学部へ入学が決まった。2年越しの大学合格,ようやく止まっていた人生が動き出した気がした。
ばたばたとしていて,Aさんへの報告が遅れてしまった。病室に入ると旦那さんがいて,「つい1週間前までは話せていたんだけどね…。」と言った。Aさんは意識なく,ベッドに横たわっていた。Aさんを見ながら旦那さんと話をしたが内容は覚えていない。もう少し早く来ていればと後悔だけが残った。大学の入学式を終えた数日後,旦那さんから連絡がきた。Aさんは幼い子供たちを残し,旅立っていった。神様なんてものはいないと思った。
(3)大学生活から現在まで
「健康の大切さや命の尊さ」を伝えていきたい,その気持ちから大学では養護教諭免許の取得を目指した。「男性なのに?どうして?」といった月並みな反応もしだいに気にならなくなった。使命感と約束があったからだ。
採用試験の面接では「鹿児島県初の男性養護教諭になりたいです。」とアピールしたが,夢は叶わなかった。全3回,最終試験までは進むものの不合格だった。しかし,この間も特別支援教育支援員として学校現場にはいたので,色々な先生方の話を聞き,現実を見る中で気付いたことがあった。私のやりたいことは担任の先生の方がやれるかもしれない。3回目の不合格をきっかけに小学校教諭免許をとることにした。
通信制大学に入学し,支援員をしながら勉強をして,小学校教諭免許をとった。1年間の臨時的任用教員を経て,2012年,鹿児島市立和田小学校に正式採用教員として赴任した。この年から自分の闘病体験をもとにした命の授業を始めた。今年度は担任する6年生で11回目の授業をした。
趣味でランニングを始めた。もともと体力には自信があったし,元気になった自分を分かりやすく証明したいと思った。病気だったけど,ここまでできるようになったと。
それをAさんはきっとまた喜んでくれるだろうとも考えた。
入院期間中にそれまで蓄えた体力はなくなっていたが,3年間,少しずつ練習を積んで,目標にしていたフルマラソンでの4時間切りが叶った。3時間57分のタイムは自分なりにも満足のいくものだった。
2校目の学校である徳之島に赴任してからはトライアスロンに熱中した。自転車とウエットスーツを買い,自転車と水泳の練習を始めた。以前の自分のタイムを超えたり,目標をクリアしたりするのが楽しかったし,「こんなことできるってことは,もう元気なんだね。」「昔,病気していたなんて想像できないよ。」等と言われるのも嬉しかった。
これまでの経験があったからか東京2020オリンピックの聖火リレーのランナーにも選んでいただいた。
今,我が家は私と妻,そして,3人の子供がいる。この子たちのことを,義理の母は「奇跡の子」と言う。骨髄移植手術を受けると不妊になる可能性があると言われた。それが嫌で手術を迷うこともあっが,命には代えられないと手術を受けた。ただ,将来の我が子への可能性を少しでも残したくて精子保存手術を受けた。
その後,大学で妻と出会い,結婚をするにあたってこの話をした。「それでもいいよ。」と承諾してくれた。妻の両親も同様に受け入れてくれた。しなくてもいい苦労をかけるかもしれないと申し訳ない気持ちだった。
ただ,幸運なことに,不妊治療や保存していた精子を使うことなく子供を授かった。3人も。結果よかったからではなく,リスクを承知で受け入れ,元気な子供達を生んでくれた妻には感謝の気持ちしかない。母の言う通り,幸運と覚悟があって生まれた奇跡の子たちなのである。
20年前に私の命は尽きる運命にあったのかもしれない。
それを家族や病院の方達,そして,ドナーさんのおかげで命はつなぎ直され今の私がある。そうして,この命から新しい3つの命が生まれた。
ドナーさんのことは何も分からない。
どういう思いで骨髄を提供してくださったのかもわからない。
一つはっきりしていることは,その優しさと善意によって,命が繋がり,これからも繋がっていくということである。
Comments