骨髄移植を経験された西村さんよりご自身の体験について寄稿いただきました。
西村 真弓
生い立ちから看護師になるまで
私は1994年、父が喜界島に赴任していた年の秋に、三人兄弟の末っ子として産まれた。
室内でのあやとりや折り紙遊びよりも外で活発に走り回ることが大好きで、幼稚園の頃の夢は「マラソン選手になりたい」と言うほどだった。五体満足で健康そのものの、普通の子供だった。
しかし2004年、小学4年生の秋頃から些細な事で疲れやすい、あざが消えにくい、風邪を引きやすいといった症状が出てきた。思い返せば、得意だった長距離で初めてビリになったその頃から病気が顔を出し始めていたのかもしれない。冬頃からは鼻血が1時間以上も止まらない症状も出始め、当時は総合病院の無い土地に住んでいたため、母に連れられて隣市の総合病院を受診した。その病院から帰り着くとともに電話連絡があり、「今すぐ大学病院に行ってください」と言われ、その日のうちに緊急受診となった。小学5年生になる春のことだった。
朝からの病院受診で疲れている中で、呼び出された先の病院で、わけも分からず骨髄穿刺を受けた時は、あまりの痛みと衝撃に鎮静下でも目が覚め泣き叫んだことは今でも忘れられない。
そして知らされたのは、再生不良性貧血という病気であること。
血を作る工場が正常に機能していないということ。
当時の私には何が起こっているのか全く分からなかったが、大人達が慌てている姿を見て、子供ながらに只事では無いんだなと感じたのを覚えている。
そんな出来事があった小学5年生の春からは親の転勤のため転校し、新しい学校と友達との生活が始まる時期だった。しかし、平日の外来通院と度重なる体調不良で学校は休みがちで、クラスメイトともなかなか馴染めなかった。仲の良い友達もまだ近くにいない状況で、不安な心の内を相談する相手も無く、「なんで私が?」という思いと、ひとりぼっちになった気がして、虚しさでいっぱいだった。
それから入退院を繰り返し、外来通院でステロイドと免疫抑制療法を続けたが改善はみられず、骨髄移植を選択することになった。当時は知らなかったが、両親には「予後は年単位で考えてください」と、厳しい病状説明がなされていた。
ドナーを探すため、両親と兄2人にHLA型を調べてもらったが適合しなかった。
それから骨髄バンクに登録し、ドナーを待つ生活が始まった。一般的にHLA型の適合確率は兄弟姉妹間でも4分の1、非血縁者間では数百から数万分の1と極めて低いと言われていたため、当時は何を目標に生きていけばいいのか分からず、まるでゴールの見えない暗闇の中にいるようで、毎日が不安でたまらなかった。
「何か悪いことをしたかな、今まで親にワガママを言ってきたからバチが当たったのかな」そんなふうに考え、ますますふさぎ込む生活だった。
6年生になり、幸いなことにドナーが見つかった。
その後の最終審査で調整がつき、正式にドナーが確定した。入院し、4日間の抗がん剤を用いた怒涛の前処置を終え、2006年6月21日に骨髄移植を受けた。前処置や移植による消化器をはじめとした激しい副作用に耐えながら、無事生着が確認された。9月の末には退院した。それ以降は、毎回採血による経過観察を行い、少しずつ慣らしながら、学校に通えるようになった。
ドナーさんとの手紙のやり取りが匿名かつ期間限定で許可され、感謝の気持ちを述べた手紙を送った。しばらくすると、丁寧な文字と文章で、『元気で幸福な人生を送られる事を心より願っております』という返信を頂いた。
小学校を無事卒業し、中学1年の時にはバスケットボール部に入部した。少しずつ体力も戻ってきたかという頃、足の付け根などに水疱が発生した。GVHD(移植片対宿主病)の一つの帯状疱疹だった。
移植から少し期間が経っての入院となり、「まだこの病気から逃げられないのか」という気持ちだった。点滴治療で早期に回復したのは不幸中の幸いだった。
中学2年の時、今度は部活中に右足首の痛みが続いた。整形外科で受診すると骨折していることが判明し、まさかの入院生活が始まった。部活に入り、やっと好きなことができると思っていた矢先、また自分だけ参加出来ないことがショックだった。
その後も松葉杖生活とリハビリとで部活になかなか行けず、部活で活躍することは出来なかった。しかしそこでは、苦楽を共にすることで今でも続く親友と呼べる友達ができた。そして、負けず嫌いな自分は、部活がダメなら勉強では負けないと頑張るきっかけになった。それから猛勉強し、第1志望の高校に合格した。高校入学後、勉強に励む中で、自分には将来の夢というものが無いことに気づいた。
高校3年の時、まだ将来の夢は定まっておらず、進路が正しいのか悩みながら大学受験したが、その学部学科は不合格となった。
浪人することになり情けなく思ったが、同じような境遇の仲間もいて、浪人生活を通して自分が何をしたいのか考え直すきっかけとなった。額縁に入れて飾っていたドナーさんから頂いた手紙を見てはっとした。将来を考えていく中で、自分が今生きて突き動かされている原点は再生不良性貧血と闘病したことにあると思った。私が100万人に数人の病気に罹り、幾つもの関門を越えて命を救われたのには、意味を感じずにはいられなかった。
まるで、「あなたはこの世に残り、すべきことがある」と言われているような気がした。
自分が出来ることは何か考えたときに、その時にお世話になった医療スタッフになって貢献し、患者さんの痛みが分かるような看護師になることを決意した。私は血を見ることが苦手で、自分が輸血してもらう時には新聞紙で点滴ルートが見えないように覆ってもらうほどだった。そのため人命が掛かっている医療現場の緊迫した状況で、自分がやっていけるのか自信もなかった。しかし、挑戦する前から出来ないと決めるのは間違っていると思った。自分に向いているかどうかは分からないが、挑戦してみると決め、そこからは改心して勉強し、1年遅れで鹿児島大学医学部保健学科看護学専攻に合格した。
大学生活を送る中で、小児看護の分野に興味を持った。発達途中にある小児期の看護は、その後の成長発達に大きく影響するため、学び深めることに興味を感じたからだ。小児科のゼミに入り、卒論では思春期の患者の看護について述べた。
その背景には、思春期に再生不良性貧血を患い、家族、友達、学校生活から切り離され思い悩んだ経験が影響していた。就職先は、鹿児島大学病院の小児科を志望した。自分が再生不良性貧血と闘病した病院·病棟だった。その頃には、年に1回ペースで長期フォローしていた小児科受診もついに最後の日を迎えた。
そして翌年春から鹿児島大学病院の小児科看護師として社会人生活がスタートした。
看護師から活動を始めるまで
社会人1年目、人命を相手にする緊張感と多重課題を毎日ひたすらこなすことで精一杯で、『患者さんの痛みが分かる看護師』という思い描いていた理想像とはかけ離れていた。
自分のせいで患者さんに迷惑をかけてしまったり、失敗することも多く、やはり自分には向いていないと逃げ出したくなったりもした。しかし毎日失敗と成功を繰り返しているうちに、患者さんに名前を覚えてもらったり、些細な話をしてくれたり、退院時に感謝のお手紙を貰ったりすることもあった。
その時に初めて、この道を選んでよかったと喜びを感じるようになった。
入院を余儀なくされている患者さんには、それぞれの物語があった。そして全員が望んでいたのは、決して特別なことでは無かった。いつものように朝目覚めて、温かいご飯を食べて、家族や仲間達と過ごして、ゆっくりとお風呂に入って、またお腹いっぱい食べて、眠りにつく、そんな何気ない日常生活を送りたいだけなのに。
病魔というものは、誰の前にも突然現れ、容赦なく身も心も打ち砕いてしまう。神様が本当にいるのなら、なぜこんなにも罪の無い人間の、健康な身体と無垢な心と、かけがえのない仲間との時間までも奪ってしまうのか。あまりの酷な事態に、正直なところ何と声を掛けていいのか悩んでしまう場面もあった。
しかし、こんな絶望的な状況の中でも、笑顔で前を向いて立ち上がる姿を何度も見てきた。私はそんな姿を見て、胸の奥が熱くなる思いがこみ上げ、苦しい境遇でも負けじと闘う患者さん達が、一日でも早く元の生活に戻ることができるようにと願うばかりだった。
身の回りの世話と投薬、処置や記録など看護業務をこなし、その他に何か自分にできることは無いかと考えるようになった。突然の闘病生活でのやり場のない不安と死への恐怖、お世辞にも美味しいとは言えない病院食、抗がん剤で抜け落ちる髪、周囲への騒音に配慮し慣れないイヤホンで視聴するテレビ、予約時間内にいそいそと済ませ湯冷めしてしまうシャワー、面会制限のため両親と祖父母以外には退院まで会えない辛さ、学校生活から切り離され勉強も学校生活も友達と差がついてしまうという焦り、自分が病気になったせいで変わってしまった家族の生活への罪悪感など、自分が体験しなければ気付かなかったであろう視点だと思う。思春期に罹ったことで、生殖機能にも影響し将来の就職や結婚などその後のライフイベントにも影響してしまうのも事実だ。
そういった現実を、こうして話すことを通して多くの人へ伝えたい。
決して同情して貰うことが目的なのではなく、そんな状況でも負けずに強く生きている人の存在を知ってもらいたいと思うようになった。
骨髄バンクの移植経験者として文書を投稿し掲載して頂いてから、私の体験を語る活動は始まった。
現在から今後について
私は、顔も名前も知らない親切な方のおかげで、その後の人生を送ることができ、幸いなことに結婚することも出来た。これ以上無い幸せだと思う。
生きていることがどれだけ幸せで恵まれていることか、それは自分が病気になって思い知らされたことだ。
私は、再生不良性貧血になった自分は不幸だと思っていた。
しかし、病気になったことがきっかけで、病魔に侵され弱い立場に引きずり込まれる人々の存在を知った。
私のために交代で付き添ってくれる両親、親の付き添いで不在の中寂しさを我慢してくれる兄弟、心配してくれる友達や親戚、学校の先生、親身になってサポートしてくれる主治医の先生と看護師さん、そして私を救ってくれたドナーさんなど、闘病生活のエンドロールには数え切れないほど多くの人々が存在していた。
多くの人々に助けられ生きてきた、生かされたこの命をいっぱいに咲かせて、今度は私が恩返しをしていく番だ。
私は今医療現場を離れているが、がむしゃらに勤務した時間は私の脳裏に色濃く焼き付いている。私がこうしている瞬間にも、帰るべき場所に帰れず、闘病している患者さんがいる。
私はそんな人々へのAdvocate として、これからも自分の経験を糧に代弁していけたらと思う。
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